阿威山善法院大念寺の縁起


藤原鎌足公御影
藤原鎌足公御影
定慧(定恵)上人 藤原鎌足長子
開山 定慧上人御影

-藤原鎌足公と慧隠法師、定慧上人

  当山の創建由来は約1370年前の飛鳥時代、舒明天皇(じょめいてんのう)の時代に、藤原鎌足公(ふじわらのかまたりこう)が遣隋使としても有名であった学問僧、慧隠法師(えおんほっし)を当地に招いて仏堂を建立したことにはじまります。師は当地にて念仏を行うさなか、神仏の夢を見ることがあり、「阿威山」(あいさん)の名は、根本・機根を表す梵字(ぼんじ)の、"ア" と"イ" に通じる仏教の霊地であることを知りました。それを聞いた鎌足公は子息を師に与えて出家させたのが定慧上人(じょうえしょうにん)と言います。また、定慧上人は実は孝徳天皇の御落胤(ごらくいん)だという伝説もあります。

-当山の前身、善法寺(ぜんぽうじ)の創建

 斉明天皇2年(西暦656)、鎌足公が病にかかり、病床の夢中に当山に鎮座する神、三宝大荒神(さんぼうだいこうじん)が現れ、「我が住する当山に寺院を建立せよ」とのお告げを与えられ、それに従って鎌足公は定慧上人を開山上人として『阿威山善法寺』(あいさん ぜんぽうじ)と称する寺を建立しました。本来なら師である慧隠法師が開山上人となりますが、師は孝徳帝の皇子(ご落胤という別伝)でもある定慧上人のほうがふさわしいとしてその座を譲りました。当時は境内に鎮守神の霊窟があって水が湧き、その傍に霊竹が生えていたとされ、現存する黄金竹(おうごんちく)であり、俗に鎌足公お手植えとも伝えます。

-中世の当山

 以来、当地は鎌足公伝来の藤原氏の荘園として伝わり、鎌足公をまつる『大織冠廟堂(たいしょくかんびょうどう)』と呼ばれました。中世には安威城と共に栄えていたと考えられます。

 中世の様子を示す史料として、室町時代には願尊という僧らによって勧進を募り、足利幕府より御馬太刀の奉加を賜ったという記録が残っています。

(『蔭凉軒日録』寛正4年12月の記事)

(『摂津善法寺内大織冠廟堂勧進帳(著者:願尊)』※『仏書解説大辞典』に目録のみで現存不明)

 

 また、応永3年には大悟という画人が四天王寺所蔵の聖徳太子自画像を模写して、安威善法寺に奉安し、明應という僧が賛を記したとあります。

(『古画備考』九巻(江戸時代後期))

 

中世より祀られてきた古像や石造物が現在も伝えられております。

-浄土宗のお念仏の道場として再興〜大念寺〜

安威大念寺開山上人御影
大念寺開山 専譽流念上人御影

 時代は下るなかで兵火や荒廃を受けたこともあったようで、中世末期には往古の寺塔の荒廃、宝物の散逸を免れない状態であったようです。

 その頃、安土桃山時代の天正年間、京都大山崎の浄土宗大念寺におられた専譽流念上人(せんよるねんしょうにん)は小さなお堂となってしまった安威の善法寺を訪れ、当地が実は往古からの霊場であることを知りました。さらにその夜、「当山を念仏の道場となして再興せよ」とのお告げを受けました。

 專譽上人は早速、安威に移り住み、民家の一部に庵室を結んで念仏の布教をはじめました。すると多くの人々が帰依し、その様子は「群集すること盛んなる市のごとし」と言い伝えられています。

 ついに、寺院再建の機運が高まり、天正18年(西暦1590)に、寺号を大山崎の大念寺よりいただき、院号として善法寺の名前を継承し、『阿威山善法院大念寺』(あいさん ぜんぽういん だいねんじ)と称する、阿弥陀如来をご本尊とする浄土宗の念仏道場を建立しました。あわせて上人は近隣の村の末寺の復興整備に尽力し、四十年間にわたりお念仏の教化につとめられました。

-江戸時代の伽藍整備

 專譽上人の大念寺は元からあった善法寺のお堂を「本堂」と称しておまつりし、境内南側の別の場所に「寺屋敷」を建ててこれを念仏道場とし、大念寺を営んでいました。

 江戸時代に入ってからの第七世住職、往譽頓隨上人(おうよとんずいしょうにん)の時に、更なるお告げを受け、往古の伽藍を復興しようと発起しました。

 知恩院やお奉行様の許可を取り付け、享保6年(西暦1721)に引地再建の移転工事を行ない、専譽上人建立の大念寺の堂宇を現在の地に移し、伽藍を構えて鎌足公ゆかりの地を整備しました。

-往古から続く鎌足公と阿威山の関係・昭和初期の再発見

 所伝によればむかし、鎌足公の霊廟は、初めは阿威山にあったが後に奈良の多武峰(とうのみね)に移ると伝わります。しかし当山は中世以降も「大織冠堂」と称してきました。奇しくも昭和9年(1934)、近くの阿武山(あぶやま)より夾紵棺(きょうちょかん:漆で固めた棺)に入った『貴人の墓』が発見され、棺内からは、美しい錦の残片や玉枕、金糸などの豪華な品々が見つかり、金糸から復元された冠帽(かんぼう)は鎌足公が授かった大織冠ではないかといわれ、これらが出現したことは当地こそ真の鎌足公の霊廟であるとおもわせ、阿武山と阿威山のつながり、麓の大念寺との深い関係を考えさせられる誠に不可思議な伝説であります。

-戦時中には児童の疎開先として

 太平洋戦争末期には、都市への空襲が激化するなか、農村部への学童疎開の拠点として当山が使用され、昭和19年から20年の終戦にかけて、大阪市城北国民学校(現在の大阪市立城北小学校)の児童150名と先生方が本堂や庫裡に疎開宿泊されました。

 

 戦時中の食糧難のため、農村部といえども腹一杯の満足まではいかないものの、大豆めしで腹を満たす毎日を送り、休日になると市内の親御さんが来られ、本堂の縁側でお弁当を一緒に食べながらひと時を楽しく過ごし、また別れる時は山門前で親子共に涙を流したそうです。(資料『安威郷土史』から)

 

 また、本堂では娯楽のひとつとして先生が持って来られた蓄音機で「愛染かつら」等の音楽を流しつつ、児童らの寂しさを紛らわしていたと伝え聞いています。

-昭和・平成・令和にかけて

 昭和49年には新本堂が落成、同53年には納骨堂が落成しました。

さらに平成に入り、庫裏の大改築を経て、平成17年には檀信徒の協力のもと本堂大屋根の大修理を行いました。その後も境内各所の整備を行い、第七世住職から続く願いでもある往古の伽藍をこれからも護持・発展してまいります。


 当山の草創にまつわる伝承は寺宝の『大織冠堂縁起』(たいしょくかんどうえんぎ『摂州嶋下郡阿威山大織冠堂縁起並序』)に依ります。この縁起書物は江戸時代の宝暦11年(西暦1761年)に大念寺第十世住職の練誉霊外(れんよれいがい)上人が、当山に古くから伝わる伝承をまとめて後世に残そうとし、第十一世住職の慶誉永哲(きょうよようてつ)上人が一巻の巻物にしたためました。

安威のムラと大念寺(クリックすると拡大)

 

安威の集落から望む大念寺(真ん中の大屋根が本堂です)

 

  • お寺の裏山は古墳が集まる花園山(はなぞのやま)
  • 右手の手前の小高い山は砦跡が残る天神山(てんじんやま)
  • 右奥の大きな山が藤原鎌足公の墳墓がある阿武山(あぶやま)