大念寺ゆかりの藤原鎌足公
大念寺所蔵「大織冠画像」の藤原鎌足公

藤原鎌足公 (中臣鎌足)

大化の改新でおなじみの藤原氏の祖。

 

藤原鎌足(ふじわらのかまたり)は中大兄皇子(なかのおおえのおおじ)の側近として大化1年(西暦645年)に蘇我氏(そがし)を倒した日本初のクーデター「大化の改新」を主導し、以後日本の国家体制の基礎を築いた有名な人物であります。本姓は中臣鎌足(なかとみのかまたり)です。推古天皇22年(西暦614年)に生まれ、出生地は奈良県高市・茨城県鹿島と諸説あります。宮中の祭祀を行う神祇官を任されますが、鎌足はこれを辞退して三島の別邸(別荘)に退きました。この三島の別邸こそが、大念寺のある場所を指すと言い伝えられています。この地において、蘇我氏打倒の作戦を中大兄皇子(のちの天智天皇)らと練り、大化の改新を実行しました。

鎌足は慧隠法師に深く帰依し、師のために寺院を建立しました(大念寺のはじまり)。その後、大念寺の北に位置する桑原(くわのはら)において地福寺(じふくじ)を建立しました。また、現在大念寺に隣接する阿為神社(あいじんじゃ)も元は鎌足の勧請(かんじょう)がはじまりと伝えられています。

 天智天皇8年(西暦)6691016日に56歳で亡くなりました。原因として落馬による感染症との説があります。死の前日には天智天皇より黄金の香炉と大織冠内大臣(たいしょくかんないだいじん)の位と藤原の姓を賜り、鎌足以降1000年以上にわたる藤原氏の祖となりました。

 墓所については大念寺の南西に位置する将軍山(しょうぐんやま)、奈良県の多武峰(とうのみね)、京都府山科など諸説ありますが、大念寺の寺伝『大織冠縁起』によれば当初「摂津国阿威山」に葬っていましたが、唐より帰ってきた定慧上人によって奈良県の多武峰に改葬されたと記されています。決定的な証拠がないままでしたが、昭和9年(西暦1934年)に大念寺の北東に位置する阿武山(あぶやま)で50歳代とみられるミイラ化した男性が被葬された古墳が発見され、鎌足の墓ではないかとして新たな有力な説が立てられました。