定慧上人(定恵・※貞慧とも)
定慧(じょうえ)上人は皇極天皇2年(西暦643年)に生まれ、藤原鎌足の長男です。俗名は中臣真人。慧隠法師に弟子入りし出家、大念寺開山上人となったのちの白雉4年(西暦653)年に11歳で遣唐使に従って中国の唐へ留学し、長安の慧日道場において神泰法師(三蔵法師玄奘の弟子)について学びました。
当山寺伝『大織冠堂縁起』によれば天武天皇白鳳7年(西暦678年か)に帰国し、唐に留学中の夢のお告げに従って藤原鎌足の遺骸を摂津国阿威山から奈良県の多武峰(とうのみね)に改葬しました。そして和銅7年(西暦714年)6月25日に70歳で遷化されたと記されています。
※上記、定慧上人の帰国年に誤りがございました。訂正してお詫びいたします。(令和5年5月)
また、鎌足の長男としていますが実は孝徳天皇の妃を鎌足が賜りそこに生まれた子供であるため、孝徳天皇のご落胤、すなわち天皇の血筋を引く皇子であるという別伝も付け加えられています。
異なる記述では、興味深い史料として、『藤氏家伝』によれば「※貞慧」と記され、白鳳16年(天智天皇4年(西暦665年)か)に唐の劉徳高の船に乗って帰国するが、同年12月23日、大和国(奈良県)大原で23歳の若さで亡くなったとあります。百済人にその才能を妬まれ毒殺されたとあります。
孝徳天皇(軽皇子)の子としては他に、有馬皇子がいて、こちらは中大兄皇子の関わったであろう政争に巻き込まれて亡くなっています。定慧上人も自身の出生によっては、政争に巻き込まれてもおかしくない一人であったのかもしれません。
定慧上人の生涯については謎が多く、元々神祇官の家柄の鎌足公の子が仏門に出家すること自体とても興味深い事柄であり、学者間では様々な説がたてられています。